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 任意後見制度の活性化に挑戦しよう!

1 記念論文集の発刊
 当法人は、昨年5月、創立10周年を迎えるに当たり、これまで順調に充実・発展の道をたどることができたことを心から祝福する趣旨で、「懇親祝賀会」、「安心の広場の記念特集」、「記念論文集の発刊」の3記念行事を計画・実施した。
  その3つ目の「記念論文集」も近く日本加除出版社から出版される予定である。題名は当法人の基本目標である「地域後見の実現」・「その主役・市民後見人」である。編著者は、小職と法務省官房審議官として成年後見制度の立法に携わった小池弁護士の2名が担当し、執筆者としては、尊崇して止まない福祉の卓越した指導者、さわやか福祉財団堀田力会長を初め、社会保障分野でご活躍の熊本県立大学石橋教授、権利擁護分野でご活躍の日本福祉大学元教授の秋本誠氏、市民後見育成に熱心な東京大学政策ビジョン研究センター元特任助教の宮内康二氏にご協力をいただいた。
  本書が読者にどんな影響を与えるかは、出版されてみないと、全く不透明だが、少なくとも、当法人の事業内容、特徴、仕組み等を紹介して、「地域後見」の実現に取り組む当法人の姿を描くことができたと思う。また、いわゆる小職の持論である、介護上の同意や医療上の同意、更には、本人に寄り添う行為や勇気付けの行為等の事実行為が身上監護事務に含まれるという理論を展開して、身上監護の重要性・実効性をも力説することができた。その意味では、10周年記念としてふさわしい論文集になったと自負している。

2 当法人の10年の歩み 
 ところで、創立から10年という歳月の流れとともに、当法人も年相応に成長し、取り組んできた諸重点施策についても、それ相応の成果を上げてきた。
  26年度は、人に例えれば、伸び盛りの11歳である。もちろん、当法人の「地域後見」の実現という基本目標は、11歳に成長しても不変であるが、11歳なった当法人が、過去10年の歩みを検証し、それを踏まえて、これまでとは違った面で、新たな施策に挑戦することは、大変意義深いことである。
  過去10年の歩みの中で、当法人の最重点施策として継続して取り組んできたのは、次の2方策である。
第1が、「当法人における後見実務と指導・監督システム指針」(以下、「システム指針」という。)の策定であり、第2が「安定した財政基盤の確立」である。
 第1の「システム指針」は、後見事務全般を網羅した「処理マニュアル」としての性格を持ち、市民後見人が後見事務を適正かつ合理的に処理し、その円滑な指導監督を行うためには、必要不可欠なものである。
 しかし、その策定作業は、未知の世界へ零からの出発であったから、開発と挑戦の連続で、生みの苦しみを存分に味わったが、10年の歳月を経て、やっと完成することができた。この「システム指針」の特質を一口で表現すれば、これまでの「親族後見人」又は「専門家後見人」とは違った資質を持った新たな「市民後見人」の育成と活用を踏まえ、現行の成年後見法制との整合性を図りながら、法人後見における新しい後見職務のあり方を明らかにした点にある。
 第2の「安定した財政基盤の確立」については、発足後10年間、1時期Ⅴ字型の落ち込みを経験したものの、終始一貫して黒字決算を維持し、相当額の損害賠償積立金を積み上げることができたことは、安定した財政システムの構築が、一応出来上がった証拠であると思う。
 
3 更なる飛躍に向けて、任意後見制度の活性化を図ろう!   
 このように、会員全員の一致協力のもとに二大施策は実現できるに至ったが、、今後の課題は、引続き、本「システム指針」に基づいて後見事務を適正・円滑に処理できる多数の人材を育成すること、また、これまでに築き上げた財政システムについても、採算性を図りつつ、的確に運用できる人材の育成であることには、変わりがない。しかし、これまでと異なるのは、前述の2大施策に注ぎ込んだ膨大なエネルギーを、今後は新たな目標に対して、ある程度振り向けることが可能になったことである。
  そこで、どんな課題に取り組むのが最善の方策であるかである。
  平成25年末現在における全国の成年後見制度の利用者総数は、176.564人。その中で、任意後見の利用数は1.999人で、全体の1.1%、つまり、法定後見利用者百人に対し1人である。極端に低い利用率であることが判る。
  ところで、当法人の基本目標である「判断能力の不十分な高齢者や障害者の皆さんが、いつでも、どこでも、容易に、成年後見制度を利用して、安心した生活を送ることのできる社会をつくろう!」という地域後見の理念から言うと、自己決定権が強く働く任意後見の方が、法定後見より利用度が高いのが望ましいから、任意後見に注力して、その活性化を図ることは、必要不可欠である。したがって、当法人が、「地域後見の実現」を基本目標に掲げる以上、新たに「任意後見制度の活性化」の課題について当法人全体が一致して取り組み、利用度向上の有効な諸方策を講じ、ノウハウを取得して、その活性化を尽力することは、当法人に課せられた使命だと思う。是非とも、任意後見の活性化を実現したいものである。
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by seinen-kouken | 2014-06-29 15:12 | 随想

神の恵み・・・気胸による特別休暇


1 最初の気胸 

22年1月10日のブログで、「祝休日がとてもとても待ち遠しい!」と子供みたいに祝休日を待ち望む私のことを書いた。そうすると、どうだろう。その途端、一度も耳にしたこともない「気胸」という病気を罹患した。人の運命を操っている神様が、神の恵みとして治療入院という「特別休暇」を与えて下さったのか、それとも、並みはずれた労働を強いて、自分の身体を酷使することに対して天罰をくだされたのか?

 気胸は3月2日夜私を襲った。午後9時頃自宅でFAX中、突然胸苦しくなり、数分のうちに呼吸困難に陥った。最初は心筋梗塞の激痛と直感、直ちにニトロを舌下したが、収まらなかった。そこで、救急車で済生会二日市病院に急行した。到着まで約12分程度。その間死を予感するほどの苦しさに耐えかねて、2回にわたり沈痛な声で、「俺の人生もこれで終わりか!」と叫んだ。今他界すれば、やり残すことが山ほどあって、無念至極だという叫びである。
 
c0166418_20175574.jpg 病院に着くと、緊急治療室でレントゲン撮影による診察が行なわれ、「気胸」と診断された。直ちに医師は胸に穴を開けて、ドレイン(管)を突っ込み、肺から空気を抜き取る緊急手術を実施した。すると、これまでの呼吸が嘘のように楽になったが、即入院となり、翌日から気胸の治療を受けた。
 気胸とは、弾力性を失った肺胞のブラ(紙風船のように伸縮しなくなった肺胞)が破裂して、そこから空気が肺内に侵入。その空気が肺を圧迫して呼吸困難になる病気である。その治療として、破けたブラの切除手術を実施する方法と、破けたブラの穴の自然閉塞を待つ方法がある。私の場合、破けたブラの場所が、私の心臓に密着していたため、病院は万一の事態を予想して、ブラの切除手術を見送り、自然の治癒力でブラの破れ口が閉塞する後者の方法を採用した。
やがて、右肺に入り込んだ空気がドレインで肺の外に排出され。3,4日間で破れたブラの破れ口も自然に閉塞したので、3月9日には目出度く退院することができた。

2 気胸の再発

破けたブラの自然閉塞を待つ方法の短所は、ある確率で気胸が再発することである。その再発を防止するため、退院直後から心臓に負担をかける激しい運動と仕事のやり過ぎによる過労を避けてきた。何とか健康は小康状態を保ち、仕事も平常とおり処理できたが、体調は優れず、健康不安から睡眠不足になる日も生じた。
そして、任意後見契約等の事件受託で、多忙を日々を送っていた最中の4月9日、一瞬の気の緩みから、1階から3階までの階段を一気に駆け昇ったそのとき、激しい心臓の鼓動に見舞われ、身体に異状を感じた。それでも、翌日は体調不良のまま、熊本に出張、これまで努力を積み重ねた「熊本後見NPO」の創立総会に出席。その後も2,3日間は、何とか持ちこたえたが、自宅階段を上がるのさえ激しい動悸を感じるに至り、遂に4月13日済生会病院に駆け込んだ。そして、気胸の再発を知った。

しかし、今回は幸いなことに、最初の気胸と違って、死ぬほどの呼吸困難はなかった。ブラの破れ口から侵入した空気が、右肺にできた防御壁のため、1部分に溜まり、右肺全体に広がっていなかったためである。
この再発の治療方法は、右肺に入り込んだ空気をドレインで排出するのではなく、入院による静養によって肺からの空気の自然流失と、破れたブラの自然閉塞を待つことであった。やがて、特別の治療や服薬もせずに、自然の治癒力により空気も抜け、ブラの破れ口も閉塞した。これで快復、入院4日後の4月17日には退院できた。

3 3回目の気胸
 
2度あることは3度ある。6月14日安心サポートネットの定期刊行物「安心の広場」(福岡と熊本の合併号)の原稿を数時間かけて精力的に決裁し、午後4時半から「後見事務指導監督研究会」の司会をこなして帰宅、その夜半のワールドカップ「日本・カメルーン戦」の観戦で興奮、胸の異状を感じて、「またやった。」と予感した。
その翌日から体調が悪化し、妻の運転で熊本出張して法律相談を受ける等したものの、息切れがきつく、遂に6月17日西本病院に駆け込んで、3度目の気胸が判明した。すぐに済生会病院に入院、精密検査では2回目と同様、右肺の1部に空気が滞留し、肺内に空気の広がりを防ぐ防御壁ができていた。

気胸が連続3回も発生しているので、医師はブラの摘出手術を検討したが、前回同様、「ブラが心臓に近い。」いう理由で見送られた。従って、2回目の入院と同じく、治療は、安静により侵入した空気が自然と肺外に流出され、ブラの破れ口が自然と閉塞するのを待つ方法がとられた。症状は順調に快復して、1週間の入院で6月24日には退院できた。

4 4回目の気胸
 
4回目の気胸は8月7日に襲ってきた。当日は当法人が主催している「第3回市民後見人育成研修」の目玉であるシンポジュウムの日だった。このシンポは福岡市の天神ビルで開催、私が「地域後見」をテーマにした基調講演を行い、パネリスト6名、参加者200名、当法人が特に注力した企画で、大規模なシンポだった。だから、「シンポ終了までは、絶対に気胸になれない。」と強い心を持ち続けたが、残念ながら終了直後に気胸が発症した。しかし、終了後だったことがせめてもの慰めだった。

 4回目の気胸は、2回目、3回目のように右肺の1部だけに空気が侵入したのと違って、右肺全面に空気が侵入、初回の気胸より弱めだが、体を動かすことができない程、呼吸が苦しかった。直ちに、救急車で搬送されたのは、二日市の済生会病院ではなく、福岡市の済生会病院である。直ちに気胸と診断され、右胸から空気を抜くドレインが差し込まれて、その日から入院となった。

5 ブラの摘出手術と膿胸治療
 
気胸を連続3回も経験していれば、4回目の気胸の治療は、空気侵入の元凶たるブラの摘出手術を実施する以外選択肢はない。今回の病院は、救急病院として福岡市でトップ級の評価のある済生会病院である。
病院側からは、すぐにブラの摘出手術が提案され、その実施が決定された。ところが、入院して2日後、38度5分の熱がでた。不運なことに、ドレインを通じて黄色ブドウ球菌が胸腔内に「院内感染」していることが判明した。 胸腔内に細菌が感染している病名を「膿胸」といい、この球菌が多剤耐性菌であれば、死も想定される、ゆゆしき一大事である。直ちに、その球菌を死滅させるため、殺菌効果の強い抗生物質が投与された。

 手術日は8月12日、手術は、「破れそうなブラの摘出手術と胸腔内の球菌を洗い流す肺の洗浄」の2つの目的のために行なわれた。気胸の方は、手術は成功し、やがて破れそうなブラは一掃されたが、胸腔内球菌の方は、肺を洗浄しても、球菌の一部は流し落とされずに、発熱が続いた。
 最初服用の抗生物質に効き目がないことが判明、違う種類の抗生物質が投与された。しかし、これも効き目がなかった。この段階での治療法は、胸腔内球菌に効き目のある抗生物質を探し当て、その投与で治療するしかない・・・。だとすると、入院していても無駄なので、8月24日に退院、同時に、効き目に定評がある3番目の抗生物質の服用を開始した。幸運にも、この服用によって体温も平熱となり、白血球も減少した。そして、9月3日の済生会病院での検査で、胸腔内球菌が衰滅していることが確認された。

終りよければ、すべてよし!で、一時期多剤耐性菌の院内感染かと心配したことも、すべて忘れて、手術レベルの高い福岡市の済生会病院に入院できたことが、「ブラ退治」の幸運にめぐり合えたわけだから、同病院と担当の島松医師に心から感謝したい。また、同病院入院のきっかけとなった福岡天神ビルにおけるシンポジュウムの開催が、4回目の気胸発症の原因となったわけだから、このシンポ計画とその実現に払った努力も大いに報いられた。

6 業務面の影響を最小限に
 
ところで、担当医師は「デスクワークは、静養のうち。」と助言、私はこれ幸いに、病院では個室を確保し、書類を持ち込んで、努めて当法人の運営に支障が出ないよう、必要な業務を処理してきた。しかし、何と言っても、3月2日の気胸の発生から9月3日の終息まで半年間、当法人のトップリーダーが、一風変った闘病生活を送ったのである。その間、「安心サポートネットグループ」の役員を始め、会員、支援者の皆さんには、大変なご迷惑をおかけした。先ず、このことを心からお詫びしたい。と同時に、円滑な事業運営のため、大変なご尽力とご支援をいただいたことを深謝したい。特に、突然気胸に襲われたため、再三私の職務の身代わりをお願いした。快く引き受けていただいたため、支障なくことが運んだ。お蔭様で業務面の影響を最小限に抑えることができたことを心から喜びたい。誠に有り難いことだ。

さて、この気胸は、何時、どこで、どんな状態のとき、発症するか判らない。ブラが破れて、不幸にして空気が急速に肺全体に広がり、呼吸困難になったら、発症後2,30分内に総合病院に搬送されない限り、死に至ることになる。ところが、私の場合、マイカーで自動車道や都市高速道を走り、福岡市や熊本市に所在する当法人事務所や相談会場又は遠く離れた山奥の施設で仕事することもしばしばである。従って、もしマイカー運転中に気胸で呼吸困難となれば、死に至るリスクは避けられない。
そのため、私がマイカーを利用して遠距離出張するときは、妻が運転し、私が同乗して出張した。万一の発症の場合、安全に総合病院に直行するための措置である。妻にとって半年間の身代わり運転は、運転の重荷のほか、その1日中の家事を犠牲にしたから、大変な負担になったに違いないが、何時も快く引き受けてくれた。このことも、業務面の影響を最小限に抑えることができた1つの要因として、心から感謝したい。

7 気胸から学び取る健康上の教訓

c0166418_19464572.jpg この度の気胸では、私の健康について家族は勿論のこと、安心サポートネットグループや支援者、友人・知人の沢山の皆さんに大変な心配をかけたこと、及び、神の恵みにより「気胸」という大変厳しい試練を与えられたことに応えるために、何が何でも、私はこの試練から貴重な教訓を学び取らなければならない。健康を保持するためには、どうしたらよいか?

神は、私が長時間精神集中をして仕事をしたり、過労状態になったりしたとき、その都度、天罰を下すかのように、4回も苦しい気胸を発症させた。それから得られる教訓は、「長時間の精神集中による仕事のやり過ぎは、私の現在の身体にマッチしなくなっている。」、換言すれば、私には「適当に仕事と休養と睡眠のバランスが採れた生活が必要である。」ということである。この教訓だと、皆さんには当たり前のことだが、私には難しいことだった。そこで、このことを、私の頭ではなく、身体で覚えるまで教えてくれたものと思う。誓って、その教訓は守り抜きたい。
以 上
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by seinen-kouken | 2011-01-30 16:58 | 随想

名前変え 「帽子おじさん」から「NPO親父」に!

 ブログの主人公を「どうして帽子おじさん」と名つけたのか?と人から聞かれることがある。口の悪い連中は、「主人公はまだ若いと訴えたいのではないか」とか、「帽子は白髪隠しではないか」という。職業柄そんな気持がなかったとは言い切れない。

 私は何時の時期からか、年齢を聞かれて、素直に答えるのが「嫌」になっていた。現在でも、よく年齢を聞かれるが、その質問には即座に「ノーコメント」と答えるのが通例である。 おそらく皆さんが私の年齢に興味を持つのは、顔は老齢に見えるけど、言動は老齢らしくない。つまり、私の顔と行動に違和感があるということだと思う。

 ところで、最近書いたブログ、「禁煙で健康回復」の記事の中で、私は今年の誕生日で、後期高齢者の仲間入りをすると白状した。そこで、「帽子おじさん」の名も返上しようと思う。
 それでは、ブログの主人公の名をどうするか。
 
c0166418_219577.jpg 私の長男は即座に「囲碁好き親父」が一番私の実像にマッチしていると助言する。「白髪おやじ」がよいという意見も出た。しかし、白髪おやじでは、後見人に面倒をみてもらう本人が不安になるのではないか。
 当NPOの目的は、地域の皆さんと協力して、「親しみ易く、利用し易い成年後見制度を利用して、高齢者や障害者の人達の生活を支援し、人権を守ることが容易な地域社会を作り上げよう!」という地域福祉の実現に尽きるわけである。そうすると、その目的のために、NPO活動にどっぷり浸った親父、という意味で「NPO親父」と言う名を使うことにした。今後も読者のご声援をよろしくお願いしたい。(平成22年1月31日記)
 
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by seinen-kouken | 2010-01-31 20:05 | 随想

祝休日が、とてもとても待ち遠しい!

1 成年後見の新制度が誕生して今年4月で丸10年、この素晴らしい成年後見制度の利用促進を図るため、NPO安心サポートネットを設立したのが5年前。設立当初から、先行する法人も、見習うべき法人もなく、ひたすら独自の道を歩む、ベンチャーの非営利法人である。それ故に、挑戦と創造を積み重ね、数多くのノウハウを蓄積して、何とか社会奉仕型のシステムを作り上げ、やっと現状まで漕ぎつけた。

 しかし、当法人の内部は、どの分野を取り上げてみても、未完成で、形成途上にあるから、今後とも、会員の力を結集し、「地域に信頼される安心サポートネット」を目指し、努力する必要がある。従って、理事長が取組む仕事も山程あって、際限がない。

2 さて、こんなわけで、私の仕事も広範、過密である。
毎週 祝休日以外の平日は全部出勤する。
毎週 月曜と木曜は、福岡市の福岡本部、通勤は片道1時間30分弱。
火曜と金曜は筑紫野市の筑紫出張所、マイカー通勤で片道30分。
 水曜は熊本市の熊本出張所、通勤は片道2時間半弱である。
 また、休日の土曜日でも、毎月2日間は後見実務研究会に出席したり、講演したりで、土曜の休日は半減する。自宅での時間も、仕事の準備に当てることが多い。平日の休暇は夢のまた夢である。

3 元気な現役時代を思い出しても、こんな激務が勤まるとは、とても考えにくい。頑健な身体には程遠い私が、毎週こんなスケジュールで勤務できるのは、我ながら驚きである。しかも、仕事に熱中しているときは、それに没頭するので、この過密や繁忙が少しも気にならない。
 ところが、給料をもらっての勤務だったら、とても耐えられる話ではなく、すぐに嫌気がさして、適宜サボタージュを考えるだろう。嫌気や拒絶反応が生じないのは、ボランティアを視野に入れた、交通費も出ない無給の社会奉仕活動だからと思う。おこがましいが、強靭な使命感のなせる業と理解できる。

 そうは言っても、始終事業のことを考え、仕事に励むわけだから、強いストレスが間断なく続き、疲労が蓄積するのも自然の成行きである。困難な作業に取組んでいるときは、特にそうである。これに対処する最高の治療薬は、私の場合、祝休日である。祝休日にはすべての重圧から解放され、心身ともにリラックスする。好きな碁をインターネットで打ってストレスを発散する。だから、子供のようにとても、とても祝休日が待ち遠しい。【あと何日寝ると、お正月!】、「あと何日頑張ると、祝休日!」という気分になる。

 こんなに祝休日を待望している私を見て、妻は「日々休日の生活だって、選べるのに、わざわざ好き好んで、多忙な生活を選んだのだから・・・」と言う。しかし、日々休日で暇を持て余す生活は、ややもすると、自堕落な生活となって、すべてが無気力になる。「小人閑居して不善をなす」のたとえでないが、決して有意義な生活を送っているとは思えない。
 従って、これ程休日が待ち遠しい生活は、逆に言えば、日々充実した有意義な生活を送っている証拠である。こんな幸せな人生の送り方はないと思う。神に感謝、仏に感謝である。
 
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by seinen-kouken | 2010-01-10 17:27 | 随想

禁煙で健康回復―ひょんなことからー


c0166418_1951913.jpg1 今年誕生日がくると、後期高齢者の仲間入りである。成年後見制度の活性化を旗印にしたNPO法人を主宰し、後期高齢者になる寸前まで、激務をこなしてきたのも、健康を保持できたからである。健康あっての物種!健康を支えてくれた妻に感謝したい。

2 私は、法務省就職後の現役時代は一貫して大変なヘビースモーカーだった。喫煙競争なら、誰にも負けないという妙な自負があった。
 やがて、50歳を越える頃から地下鉄の長い階段を上ったり、一寸過激な運動をしたりすると、息切れに苦しむようになった。あちこちの大学病院で診断してもらうと、「喫煙が原因の重度の肺気腫。62,3歳頃には、常に酸素ボンベを携帯し,管を通じて鼻から酸素を吸入する状態になる。」と、すべての先生が口を揃えた。
 こんな緊迫した事情があって、私は何回も手を変え、品を変えて、真剣に禁煙に挑戦した。妻も禁煙病院に入院手続を採るという切羽詰った努力までした。しかし、いつも、私の意志薄弱が原因で、失敗に終わり、後味の悪さだけが残った。

3 しかし、禁煙せざるを得ない好機がひょんなことから巡ってきた。法務省を退職して、一年も経たないうちに、私を奇病が襲ったのである。
 筋肉の硬直化や衰えで、独力で立ち上がれなくなった。また、匂いに敏感で吐き気がしたり、寒さに敏感で異状に寒がったりして、どんな病気になったから、こんな症状が出るのか?沢山の医師にみてもらったが判明せず、最終的には、東京虎ノ門病院で脳下垂体の腫瘍であることが判明した。脳の下部に「ホルモンの分泌をコントロールする豆粒ぐらいの脳下垂体があって、そこに腫瘍ができている。」という話である。

c0166418_19581319.jpg この腫瘍を取り除くには、手術が必要である。そのため、40日強の入院をすることになった。勿論入院治療中は喫煙が厳禁である。お蔭様で医学の驚くべき進歩によって、頭を明ける開頭術ではなくて、上唇の内側から管を通して、脳の底の方からほじくり出す、経鼻的術により腫瘍の摘出手術は成功した。この手術で脳下垂体の機能も正常化した。それと同時に、どんなに努力しても、実現しなかった禁煙にも成功し、二重の喜びとなった。
 私は嬉しさのあまり、退院の帰路、日本橋の高島屋に直行し、1階から4回までぶっとうしの階段を一気に駆け昇り、喝采を叫び、欣喜雀躍した。
 一度、肺機能の向上という素晴らしい禁煙メリットを体験した後は、2度と禁煙の誓いを破ることはなかった。

4 この禁煙によって、健康を回復したお陰で、9年間の公証人を勤め上げた後、成年後見制度の活性化を目的としたNPOを立ち上げ、その活動に没頭できているのだと思う。 健康に感謝、感謝である
 
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by seinen-kouken | 2010-01-08 22:39 | 随想

ボロボロの写真帖


c0166418_20241414.gif1 主人公淑子は、年齢は50歳代半ばぐらい。20歳ぐらいのときに、統合失調症を発症し、それ以降現在まで、長年病院で治療生活を送ってきた。
 病院では淑子は、動作は鈍く、歩行はあちこち歩けるが、生活自体は自立ができず、食事、入浴、排泄は、看護師等の介助をうけている。また、幻想、幻聴があり、ときに大声で喚くことがあって、これが同室者の迷惑になるという理由で、現在は、殺風景な4畳半の個室が与えられ、そこで一人で寝起きしている。
 淑子には実の姉が1人居るが、彼女と同じ病気で、他の施設に入所して居る。淑子の方は姉が居ることを知っているが、姉の方は妹のことを何も知らないと答えているので、2人が会って、話す機会はない。淑子の母親は、淑子が25歳のときに、娘2人の看病疲れで、病気になって死別した。父親は母親無き後の娘たちの面倒をみるため、孤軍奮闘したが、淑子が45歳のときに、脳溢血でこの世を去った。淑子は、全く可愛いそうな、孤独な身の上である。

2 私は縁有って、3年前から彼女の成年後見人として本人の身上監護や財産管理を担当している関係で、月1回は入院先を訪ね、彼女と面談している。
 面談では、私が、身体の調子は?と聞くと、「普通」、身体の悪いところは?と聞くと、「どこも悪くない。」 何か欲しいものは?「何もない」と、素っ気なく答えるだけで、一切無駄なことは喋らない。彼女と何か気持の通じ合えることがあるとすれば、別れ際に私が何回も手を振ってバイバイというと、彼女も不器用に片手を左右に振って応えるだけである

3 こんな状況なので、2人がお互いの喜びや悲しみを共有することもなく、無味乾燥な面談が2年間も続いた。そんなある日、いつものように病院に赴き、面会を申し出て、看護師に案内を頼み、淑子の部屋のドアをノックして開けてもらった。そして、何気なく中を覗くと、珍しいことに彼女が何かを食い入るように眺めていた。それが厚さ3センチほどの写真帖であることは、すぐ判った。即座に、「私にもその写真帖を見せて欲しい。」と頼んだ。私を見て、すぐ隠そうとしたが、私の迫力に押されて、嫌々ながら見せてくれた。
 とても古びた写真帖で、手垢で汚れ、台紙がこすれて、擦り減っていた。一目見て、この写真帖は,何百回、何千回となく、繰り返しめくられ、眺められたものであることは、すぐわかった。

4 写真帖をめくると、最初に目に飛び込んできたのは、淑子姉妹が前列、両親が後列に並んだ家族4人の写真だった。働き盛りの元気者の父親、優しく明るい感じのする母親、伸び伸びと育った、仲の良さそうな中小学生の姉妹の写真である。この写真の前後には、淑子の幼児、幼稚園、小中学校時代や中学のバレー選手だったときの写真も貼ってあった。また、元気な家族4人の明るい写真が何枚も貼ってあった。私は、これまでこんなに幸福そうで、健康に溢れた写真を見たことがない。私は夢中になって、その写真帖を見入った。なんとも名状しがたい感情に襲われた。
 「何時もこの写真帖は見ているの?」、彼女は「そうだ。」とうなずいた。淑子がこの写真帖をどんな気持で眺めているのか? その気持を推測する度に、目頭が熱くなって、胸が締め付けられる。

5 私は、後見人に就任するとき、淑子の叔父から次のような話を聞いた。「母親は、2人の娘の悲運を嘆き、日夜療養看護に明け暮れていたし、また、父親は、姉と妹の所有名義で多額の預貯金や有価証券を残しているが、それは、父親が親なき後を心配し、猛烈に働いて、2人の娘が一生苦労しないよう蓄財に努めた結果であると。」
 この写真帖は恐らく母親が作成し、「お父さんとお母さんは、何時も淑子ちゃんの傍に居るのよ。」と言って、本人に持たせた唯一つの「お守り」に相違ない。どんな思いで、この写真帖を持たせたか、母親の心境を推し量ると、悲しみを乗り越えて、想像を絶するものがある。
 
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by seinen-kouken | 2009-01-20 21:23 | 随想

石の上にも3年

c0166418_2151266.jpg 「石の上にも3年」という言葉は、世間ではよく使う言葉で、石のうえでも、3年続けて座れば、温まるとの意味から、「我慢してじっと辛抱すれば、必ず、最後には報いられる。」 という諺です。
 安心サポートネットは、平成16年5月29日創立総会を開催しました。私はその冒頭の挨拶で、この諺を引用して、発足当初からお客さんも来ない、する仕事もないというような、真冬の寒々とした状況が長く続いても、耐えに耐え、辛抱に辛抱を重ねていこう!そうすれば、やがて春がやってくる、と会員の皆さんに呼びかけました。
 しかし、幸いにも、当法人は冬枯れの厳しい時期を経験することなく、お客さんも沢山来てくれて、仕事も結構受託しました。その上、幸運にも新聞やテレビ等のメディアからも、暖かく迎えられました。その後の経過も順調に推移し、「石ノ上にも3年」という諺は、当法人には縁がないように見えました。

 しかし、そうは問屋が卸さない。平成19年11月に開設した当法人の熊本出張所は、まさに「石ノ上にも3年」 という諺が、ぴったり当てはまる程、お客さんが滅多に来なければ、仕事もこない、じっと辛抱して待つ、という状態に陥ったわけです。
 この事態を打開するには、どうしたらよいでしょうか?
 選択肢は2つ。その1は、仕事の受託のための宣伝を行って、仕事が来るのを辛抱強く待つ。その2は、仕事の受託宣伝よりも、熊本市民に役に立つ事業を行って、その信頼を得ることに力点を置く。 どの道3年間も辛抱することになるのなら、熊本市民に役立つ後者の方法を選択するのが賢明だと思います。

 判断能力が不十分になった熊本市民の高齢者や障害者を熊本市民の力で面倒をみる。このシステムを実現するためには、熊本市民から多数の後見人を育成することが必要です。そのことを実現できる唯一の道は、熊本市で「成年後見人等育成研修」を実施することです。この種の広範で専門性の高い研修は並大抵の団体では、到底実施することが困難です。それだけに、この研修が実現すると、熊本市民には朗報で、貴重なプレゼントになるばかりか、熊本市民の皆さんの当法人に対する信頼も得られることになると思います。

 この研修は来年中頃までには、実施することを目途に、現時点から着実に準備していきたいと決意しています。

 注 平成20年11月には、当法人理事会で,熊本市において「成年後見人等育成研修」を実施  することを決定し、次いで、21年1月には【熊本版成年後見人等育成研修実施実施要綱】
  が定められて、間もなく受講者の募集が行われる予定です。
   同要綱によると、研修日は7日間、総研修時間は42時間、後見人等の職務の遂行に必要
  な広範な研修科目を質の高い、実務にも明るい講師陣が担当します。詳細は当法人のホー  ムページ (http://www1.odn.ne.jp/seinenkouken-npo/)を参照してください。
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by seinen-kouken | 2008-11-05 21:34 | 随想

伊能忠敬の青春

c0166418_19531856.jpg  私は、安心サポートネットの事業を推進するに当り、困難に直面したり、気力を失ったりしたときに、よく伊能忠敬を思い出して、勇気や元気を与えて貰っています。この意味で、伊能忠敬は励みの源であり、元気の泉です。

 皆さんもご承知のとおり、伊能忠敬は、1745年現在の千葉県に生まれ、17歳で伊能家に婿養子となり、衰えかかった伊能家の酒造業を再興し、軌道に乗せました。これが彼の第一の人生です。その伊能家の家督と事業を50歳のときに長男に譲り、その後は全く専門外の天文、測量の術を志して、苦学を重ねてこれを修得しました。その後は、測量術を駆使、艱難辛苦して、蝦夷地を測量、次いで、日本全国を測量して、画期的で精度の高い全国地図を完成し、74歳で、この世を去りました。これが彼の第二の人生。この第二の人生における偉大なる業績は後世に伝えられ、日本は勿論、世界中から高い評価と賞賛を受けています。

 彼は人生を2度生きました。特に、50歳になって、第一の人生と全く異質で、桁外れに高度の知識と技術を修得して、人跡未踏の測量分野に強靭な使命感をもって挑戦いたしました。その原動力は、一体何だったのでしょうか?

 「伊能忠敬 九州測量日誌」(社団法人北九州測量協会)の小冊子には、人生を二度生きるその志として、人生を「生涯青春」として生きた人ではなかったかと書いて、西欧の詩人の次の言葉が書き添えてありました。
青春とは年齢ではない。青春とは何時までも少年のような好奇心と、胸の奥に沸々とたぎる情熱のある限り、青春である。
 現在は「人生80年」時代、伊能忠敬の生き方は、現代の方がよりマッチし、深い感銘を与えて止みません。ここに彼の生き方が常に私の先生であり、希望の星であり、勇気の源であり続ける理由があります。
 
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by seinen-kouken | 2008-09-17 21:49 | 随想